さいなら。

あっ!くん

2012年06月10日 02:36

叔父が亡くなった。



享年77。

まだ早いと感じている。

数か月、癌との闘病の末の事だった。



関西に居を構え、建設業に従事していた叔父は

故郷の生家を守る末兄弟の私の父を、ずいぶんと可愛がっていたようだ。


地元鶴岡での仕事が薄い時期には関西に父と母

まだ幼かった私ら家族みんなを呼び寄せ、数年面倒を見てくれたそうだ。

(おぼろげながらその当時の飯場暮らしの記憶がある)


大阪万博後の好景気に沸く関西では、巨大なマンションが乱立する

マンモス団地の建設ラッシュで、有数の建設会社の役職についていた叔父のもと

父はコンクリートの型枠大工として数々の現場を渡り歩いていたそうだ。


当時の建設現場といえば、元気がよくて変わり者(時にはちょいと危ない面々も)

の寄せ集めのようなもの。また地元鶴岡・黒川からの出稼ぎの方々もたくさん

集まり、日々その面々を束ねていた叔父も当然元気がないわけはない。



常に声は大きく、関西風の言葉づかいではあるが庄内弁丸出しで隠そうともしない。

烈火のごとく怒ると思えば、少々気の小さいところも見え隠れ・・。

義理人情には厚く、細かな気配りは怠らない。

でもそれが私から見たらたまに的外れ。

誰とでもすぐに打ち解け、まるで友達のようにしゃべってる。

「おいらの東北訛りを馬鹿にしとんのけ!?」と、相手とゲラゲラ笑ってる。



そんな叔父だったので、いつも周りはにぎやかで

若いころの楽しいエピソードも数々ある。

(はばかって紹介できないことも多々ある)


飯場暮らしのころの父と叔父が、みんなに振舞ううどんを

顔を粉だらけにして手打ちしている楽しそうな写真を見たことがある。

(どこにしまってあるかわからないが目に焼き付いている)


けっして楽ではない大変な時代だったろうが、

でも楽しそうな時代・・。






建設会社を辞めてからも強力なコネクションで

冬場の「出稼ぎ先」を確保してくれていた叔父。


まだまだ元気だったので、大工になりたて、甘えたっぷりの若輩の私と一緒に

「あーでもないこーでもない」と言いつつ現場で作業をした。

時に感情をぶつけてしまうこともしばしば。

そんな時、叔父は本当にやさしかった。

私も父同様、本当にかわいがられていたと思う。




そうやってほぼ毎年関西に出稼ぎに出ていたある年、

私たちは阪神大震災で被災した。

兵庫県西宮のアパートの一室に、

叔父と父、私とほかの職人数人で生活していた時のことだ。


半壊したアパートの二階から脱出し

(よく生きていたものだ)

叔父の号令で暗闇の中、一階に住む老人たちを救出し

「すぐに山形に電話しろ!」と公衆電話から母に連絡を取り

(直後に電話も不通。

  あの叔父の指示がなかったら連絡の取れない母は発狂していたかも)

これまた半壊した建設現場の建物で寒さをしのいだ数日の事は

絶対に忘れない。




そのあと膨大な数の仮設住宅建設に大きくかかわることになり

その後の新潟・中越沖地震の仮設住宅建設が

叔父とともに働いた最後の現場になる。



それまで父を筆頭において進めていた現場を

「新潟ではお前が仕切るんじゃ」と任せてくれた。

うれしい反面、心配で眠れなかった。









私もおかげさまで地元での仕事が忙しくなり、出稼ぎをする必要が無くなった。



用は無くともひと月に一度は必ず電話をくれ、

私の仕事の様子や家族のことを心配してくれていた。



二月の黒川の祭りが近くなると、

ひと月に一度の電話が一週間に一度になり

二日連続でかけてくることもあった。

「今度はだれだれに当屋が来るのー

     あれはワシの同級生じゃ」

「今年の当屋はどんな塩梅じゃ?

  ほーかほーか、ま、体に気ぃつけや」



本当に故郷の事が好きだったんだと思う。







そんな電話もある時期からばったりと来なくなった。







検査がそのまま長期入院になったそうだ。





死期を悟っていたらしい叔父。

調子のいい時は病床で携帯電話をいじっていたらしい。


入院の直前に新しい携帯電話に取り換えたそうで

操作がわからず納得いかなかったようだ。



おかげで毎日のように私に間違い電話をしてくる。

出てもなにやらごそごそと音がするのみ・・・。


でもあるとき「もしもーし」というと叔父が答えた。

「すまんのー、間違いじゃ・・・・

  お前はどんな様子じゃ・・・?」と弱弱しい声。


あの威勢のいい叔父の声からは程遠く

悲しくなったが、それでも

「自宅のあそこを、直したいんじゃ・・・

  ・・階段は移設できるかのー?

 ・・反対側に廊下を持ってったら便利やと思わんか・・?」と

自分が退院したら・・・の夢を話す叔父としばらく話した。


これが最後の会話。




その後叔父は、忙しい私を気遣って

これ以上間違い電話がかからないように

従弟に私の番号を削除してもらったそうだ。








叔父の遺言は

「葬儀は簡素に。家族兄弟だけで。香典は受け取るな」


亡くなったことは誰にも知らせていなかったが

それでも聞きつけた古い友人や同業の仲間が

遠くは四国から滋賀の自宅に夜中に駆け付けたそうだ。


遺言通り私は葬儀には参列しなかったが、

「お世話になった」という方々からこちらに連絡をいただき

遺言のことを伝えたが

「あの人らしい・・・・

  でもどうしても」とお気持ちをいただき

困って滋賀で葬儀の段取りを手伝っていた父に連絡すると

「こちらもそういう方々が大勢いて困ってしまった」とのことだった。



仕事をリタイアした後は、町内会の事に本当に熱心だったようで

叔父が建てた物置小屋には子供たちから「アッキーの小屋」と

愛称をつけられていたそう。


そんなことだから葬儀には小さな子供たちまで大勢参列してくれたそうだ。

叔父の遺言は完全に裏切られた形だが、その話を聞いてなんだか誇らしく思う。








この記事を書き始めて2時間半ほどたつ・・・。

まだまだ書き足りないことはたくさん。






手直しで出向いた仮設で暮らす一人暮らしのおばちゃんが

叔父と話しているとホントに楽しそうだったこと




出稼ぎから引き上げるとき、寮の5階の窓から

「こづかいじゃー!」と空き缶に詰めた紙幣を投げてくれたこと。




私が結婚してすぐに父母と四人で滋賀に遊びに行き

叔父に案内してもらいながら観光していたが

カーナビが、叔父が案内する方向とはことごとく逆を案内するものだから

「わしゃもーしゃべらん!!」とすねたこと。




朝、高速道路で現場に向かう際、車内であまりに話が盛り上がり

現場とは全然関係ない方向に向かっていて爆笑したこと。







・・・楽しい思い出がたくさん。








心残りは、ようやく授かった子供たちに会わせてあげられなかったこと。









叔父(私たちは「大津の親父」「大阪の親父」と呼んでいた)に会うと

楽しく、元気をもらった。



見守られていると思うと、今もなんだか同じ気持ちになる。










「ほなな、さいなら」と言って旅立ったような気がする。
















このブログを楽しみに見ていてくれた叔父へ



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