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「家づくりには物語がある」
雪国で暖かく健康的な暮らしを考える秋山工務店
代表 秋山篤司の日々です。




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山形情報ガイド・んだ!ブログ

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2011年01月20日

16年。

 王祇祭の時期になると、滋賀に住む叔父様からよく連絡があります。

自分も年を重ね、黒川に住む同年代の方々が祭りの当屋当人を務める様子が気になるみたい・・




いろいろ近況を話して最後に、

「おい、しかしアレからもう16年やぞ!」と一言・・・・・




  阪神淡路大震災。  アレからもう16年・・。














16年前の1995年1月15日。



主に関西を拠点に型枠大工・プレハブ内装大工工事をやっていた叔父の

ところにほぼ毎年、出稼ぎと言う形で世話になっていたあっくんは、

先発で乗り込んでいた父(親方)と職人さん数名を追いかけ

兵庫県西宮市まで電車での長旅。


駅に着き、叔父に迎えをもらい宿にしていたアパートへ。



毎度の事ながら、職人数人で寝泊りするアパートは築30年ぐらい

(もっと古いかも!?)の木造モルタルの二階建て。



一階にあるドアをくぐり急な階段を二階に上がると6畳二間に

五人が寝泊りして頑張ろうと言う体制。



「さーて明日からがんばるぞー!」なんて思っていると

「ああ、明日は現場、休みだぁ」と・・・・


拍子抜けしたところに「せっかくだから、あちこち観光しよう」と父。





翌16日は、宝塚やら何処やらみんなでドライブ。

若い時分、父もしばらく関西に住んでいたので楽しそう。


何処を廻ったか詳しくは忘れたけど、あっくんも楽しみました。






アパートに戻り、「さていよいよ明日からほんとに頑張ろう」と

飯を食べ、十分に酒も飲んで皆就寝。

関西と言えども冷え込みは厳しい夜でした。




















・・ぐっすり眠っていたあっくん。




突然!!体を叩きつけられるような激しい振動で目が覚めた!!




コンテナに入れられてめちゃくちゃに振られているような感じ!!




巨大な波に巻かれている居る様な感じ!!





体が畳から跳ね上げられ何度も叩きつけられ

目は覚めているがとても開けていられない!



何かが落ちてきたり倒れたり飛び上がったりしているようだが

真っ暗でまったく見えない!


それでも目の端にチラチラと見えるのは

窓の外の稲妻のような激しい光!





誰かが叫んでいるようだが地鳴りで何も聞こえない!










・・・たっぷり1分は続いたんじゃないかと思われた、

    なんだか解らない振動・・。



あまりの揺れ(アレを「揺れ」や「振動」という

        生易しい表現でしか表記できないのが悔しい)に

「地震」とすぐさま理解できた人は居なかった・・。














まずその場にいたみんながほしがったのは明かりでした。


でも当然電気はつかず、ライターを探り当てた職人さんが火をつけた瞬間!

誰かが「消せ!!!!」と叫ぶ!



部屋はガスの臭いで充満していました。





何よりまず外に出ようと考えたあっくんは、

手探りで階段へ続くドアを探す・・・・。



真の闇の中、一歩踏み出せば何かにあたる・・・

床はとてもまともに歩けないほど物が散乱している様子。

建具もすべてはずれ、バタバタと倒れていました。




ガラスを踏まないように何とかドアにたどりつき

壁に手を当てながら階段を下りると、なんだか階段がおかしい・・・・


まともにまっすぐ立って下りられない感じ・・


それでも何とか外に通じるドアにさわり、ノブを回してもまったく開かない・・






非常にいやな感覚をもったあっくんは、

「早く出なければ」と刑事ドラマのようにドアに体当たり。

転がるように外に出たあっくっは愕然としました・・・






外は高層マンション群の非常ベルが鳴り響き、

夜の空は遠方の火事?でぼんやり赤く染まっている・・・・


何が起きたかまったく理解できない人達が

寝巻き姿のまま、ちらほらと外に出始めていました。





まるでこの世の終わりのよう・・・・


そう思いました・・。








我に返り、振り返って闇にぼんやり浮かぶアパートを見て血の気が引きました・・・


今出てきたアパートは、一階が潰れかかり倒壊寸前!


あの二階にはまだみんなが居る!!!




「早く出ろー!!!!!

   潰れるぞー!!!!!」



夢中で叫びました。


(叔父はあの時叫んだあっくんの声がいまだに耳に焼き付いているといいます)











なんとか皆が外に出て数枚の毛布や布団を運び出した頃、

叔父が叫んだ!

「一階にも人がおるぞ!  老人ばっかりや!」



ダーっとそれぞれの部屋の玄関に駆け寄って

ひずんで開かなくなった戸を、物干しのコンクリートの台を叩きつけて破り

土足で構わず入り込んで「大丈夫ですかー!!!」と呼びました。



自分が入った部屋には目の不自由だというおばあさんが居て

めちゃくちゃに倒れた箪笥の隙間に呆然と立っていました・・・


頭から若干出血はありましたが無事のようで

背負って隣の教会に(鉄筋コンクリート造で無事)運び入れました。




幸い、半壊した一階に住む人たちも全員無事で

このアパートの犠牲者は居ませんでした。














明るくなるにつれ、周りの状況が見えてきました。




近所の木造家屋は多くが倒壊。

道路には屋根瓦等が散乱・・・というか山積み。

「あのマンションは傾いている」

「あのマンションは完全に潰れてるそうや」

「テレビはやっとらんのかいや?!」

などと近所の人たち。


早朝5時過ぎということもあり、テレビ放送は期待していませんでしたが

たまたま父の車に車載テレビがありつけてみると

臨時ニュースのようなものが映り、

まだまだ何が起きたか把握できていない様子・・


地震だとは言っていましたが、「犠牲者が10数人確認されています

                 あちらこちらで火災が起きています」と。



(それが後に数千人になろうとは・・)




とっさの判断で、近くの公衆電話(携帯がまだ普及していなかった)で

山形の自宅に連絡。

幸いこの時点でこの回線は通じ何とか無事を伝えるも

なにせ早朝ということもあり、実家の母は何のことやらさっぱりわからず。

「そのうちニュースで大変だと思う」と言い残して電話を切りましたが

そのあとはまったく連絡が取れなくなり、ずいぶん心配したそうです。







自分たちが今できることを確認し、できる限り身支度を整えた後叔父が

「近所に住む知り合いの安否を確認しに行く。

  こんなことはめったにないだろうから一緒に来い」とあっくんに。





歩いて廻ると(歩くしか移動手段はなかったけど)

状況の悲惨さがよくわかりました・・。


足元は地割れに気をつけないと危険。

完全に倒壊した建物の脇でなすすべなくうずくまる人・・・

中に人がいるのかと確認するにも気の毒なほど完全に潰れている・・・・



叔父の知り合いが住むアパートもどうやら倒壊していた様子。

でも安否は確認できなかったと。


(後にわずかな隙間に挟まれて助かっていたと判明)








近くの大きな通りに出ると、高速道路の高架が崩れ落ち、

残った高架にバスが半分はみ出している!!

(後にニュースで何度も取り上げられた有名なあのバスだった)


下に落ち、横転したトラックの荷台からは大量のウーロン茶のペットボトルが散乱。

居たであろう運転手は運ばれた後なのか、キャビンは空でした。

(後から、飲み水に困る事に気づいた我々がこのウーロン茶を

           拾いに行ったが、一本も残ってなかった)








状況をしっかり目に焼き付けたあっくんは、アパートに戻る。

「このアパートに今夜泊まるわけにはいかない。

  現場のプレハブだったら大丈夫だろう」と

なんとか車を走らせ、西宮市役所近くの鉄骨プレハブの建物へ。

しかしこの建物の鉄骨の柱も足元がすべて断裂していて危険な様子。

(あんなに太い鉄骨が断裂してた!本当にビックリした)



しかし他に行くところもなく、今すぐ倒壊はしないだろうと

ここに寝泊りすることに決定。






あの場に居る間、結局水は出ませんでしたが、父が思いつき

公共施設等は屋上タンクに水を溜めているはずと

近くの西宮市役所から、ビニール袋に出来る限り汲んで来ました。

その後タンクの水は無くなったそうですが、これはラッキーでした。





一晩そこで過ごしたわけですがまったく眠れず

一晩中町内会の役員と思しき方々が懐中電灯を片手に見回りに来てくれました。











夜通し父と叔父は相談していましたが、結局

翌日、思い切って滋賀の叔父の家まで向かう強硬手段に出ることになりました。








今考えるとほんとに幸運でしたが、道路に点在する地割れに阻まれ

迂回しながらもなんとかたどりつけました。











その後我々も山形まで何とか無事に帰りつけました。













今、これを書いていて思います。

ほんとに壮絶な体験をしたと・・・。


そして何より全員無事だったことが奇跡のようです。














その後約一ヶ月後に我々はまたあの震災現場に戻ることになります。

ものすごい数の「仮設住宅」の建設に携わるわけですが、

そのお話はまた後ほど。












あれから16年・・・。












建築屋として、非常に貴重な経験をしました。

建物の耐震性の重要性が身に染みています。

と同時に、あの激しい揺れに耐える(揺れを逃がす)

建物作りは生半可なことではないとも思います。

この経験を活かさない手は無いと感じています。























犠牲になった方々のご冥福をお祈り申し上げます。


















Posted by あっ!くん at 01:17│Comments(0)
 
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